トーマス・ライト・ブラキストン(=トーマス・W・ブラキストン) |
名前 | 日本では、ブランキストンともいわれる。 |
生死 概略 | 1832年12月27日 - 1891(明治24年)年10月15日、享年58歳 生地:イギリス、ハンプシャー_リミントン、貴族の家に生まれる。
死亡地:アメリカ、カリフォルニア州サンディエゴ研究旅行中、肺炎に倒れ死亡。 |
人物 | 元軍人・貿易商・探検家・博物学者。士官学校卒業後、軍人。クリミア戦争にも参戦。 軍人生活終了後、従来の彼らしき生き方として、探検、研究。動植物知識の他、測量、気象学知識有。
バランス感覚がよく生業としてのビジネスには精力的。その傍らで研究をする人生。 1861年、第一回目箱館来日。1863年再来日:1863年~1883年迄箱函館居住。計20年。
動植物の分布境界線として「ブラキストン線」を提唱。その為日本での認識は学者としての印象が強い。 |
軍人生活後中心に見た彼の行動 |
軍人時代 | ※ ~ 1863年 | ※ ~ 30歳 | ◇近衛砲兵将校:クリミア戦争参戦。この時、弟のローレンスの戦死。
◇1857(24歳)パリさー探検隊の一員となる。カナダ、アメリカ等で、地時期観測。 ◇大尉時代:広東守備 _この時、軍務の傍ら、揚子江探検。揚子江上流に住む苗(びょう)族の研究を発表。
◇1861/7~9月位(28歳)第一回目箱館単期滞在。 (この時期にも駒ケ岳に上るなどして動植物研究 |
会社員 時代 | ※ |
※ | ◇西太平洋商会に入社 |
1863年 | 30歳 | ◇エミリーと、第一回目の結婚 |
脱サラ& 冒険& 箱館へ | 〃 | 30歳 ~ | ◇新婚旅行=シベリア横断。
◇1863年6月末、箱館へ再来日。そのまま住み着く。 ◇友人と箱館にブラキストン・マル商会を設立。貿易、製材所経営。研究も継続。 |
箱館戦争 時代 | 1868 ~ 1869 | 35歳 ~ 36歳 | ◇1868/10、榎本軍来蝦夷 ◇この時期、自国イギリスの司令に忠実な彼は、新政府側の応援。
武器、石炭、食料など注文に応じる。 |
明治3年 ~ 5年 | 1870 ~ 1872 | 37歳 ~ 39歳 |
あいかわらず基本の商売、交易と製材業 ◇移民の移送:彼の船、カンカイ号で移民を根室へ。(アキンド号は沈没)他にアスリ号
も彼の持ち船。 ◇開拓使と契約をもった柳田藤吉の援助も含め、暫し開拓使にも貢献している時代。 |
箱館から函館に変った頃、暗転の坂道、ブラキストンの運命 |
明治6年 ~ 13年
| 1873 ~ 1880 | 40歳 ~ 47歳 | 雲行きが転じた開拓使 ◇開拓使が軌道にのると、なぜか、ブラキストンへの扱いが徐々に雲行き悪化していった。
三菱などの大型船が航行。おかげで、ブラキストンは生業が苦しい。 |
〃 | 青函連絡船の生みの親は、実のところ、ブラキストンだった!! |
元祖青函連絡船スタート(明治6【1873】~7【1874】):40~41歳 青森~函館(この頃から、箱館でなく、函館に変化してゆく) ミシン丸(マークゲー・ローダー号)による定期運行。好調。 ↓ 開拓使が横槍。開拓使名で別便、競合。わずか8ヶ月で、この商売を廃業。 |
使用人縊死事件・・・明治6(1873)年2月発生(40歳の時) |
ブラキストン家から、大量の鉄砲と刀が盗まれた。嫌疑者は使用人の「喜六」と「平四郎」
盗んだことは認めたが、黒幕を口割らない。(黒幕:頼まれた相手、引渡し先、目的) 猟用鞭で殴った。さらに縛って蔵に押し込んだ。翌朝、二人とも死んでいた。殺人嫌疑。結論は、 鞭撻の罪で終わり、多額の過料支払いで決着したが、真相不明。幾つも説があり詳細は皆食い違う。
一人は自殺と見なされた。縄を自分で解いて、首を括ったのだろうで決着。しかし、もう一人(少年)は 蔵の中で縊死。当時の日本は強気で外人を訴えることなどできない時代だが、被害者が16歳前後の少年 だったことから、相当揉めた。暴行を加え、衰弱の後放置により少年を死に追い込んだ悪魔のような外人と
噂された。第三者による口封じかもしれない事件だった。 |
ドイツ代弁領事:ルードウィッヒ・ハーバル暗殺事件・・・明治7(1874)年2月発生(41歳の時) |
犯人は自主。秋田県士族「田崎秀親」。斬首で終了。 外人無差別天誅。狂人の独断犯行として事終了。秋田藩に飛び火は防がれた。
原因は、秋田県で皇学の生徒募集があった。入学する気だった。しかしこの案が廃止。夢破れた彼は、 日本が外国と和親を提携したからと思った。 ◆実は、この日、犯人が真っ先に目撃したのは、ブラキストンだった。しかし、ブラキストンは2メートル
以上の超大柄男。手に負えないと見送り、小柄のハーバルが通りかかったところチャンスと思い、行動に 出たことは糾問されて、本人がしゃべった。この頃、ハーバルはブラキストン家に滞在していた矢先の 事件だった。 |
・・・明治8(1875)年8月(42歳の時) |
明治7年7月に発行したブラキストン貿易商社の株券。再生を考えた暁の新規会社設立計画だった。
この件が開拓使のクレームの的。ついに、8年、発行も禁止された。会社設立されては困るが 開拓使の本音。 |
低迷の製材業・・・明治13(1880)年、ついに、製材業も廃業・・(47歳の時) |
明治維新のせいで、蝦夷の自然は、節操なく破壊されていった。それまで生息していた
動物もこの時期にどんどん滅びた。木材資源も同様、函館近郊では枯渇。 ↓ ブラキストンは明治6年頃から再三石狩への移転を計画、開拓使に願うが何度も拒否される。 今だ林資源の豊かな石狩への移業を考えたのだが、明治13(1880)年、ついに、製材業も廃業する。 |
函館に絶望、失意の中、研究発表 |
発表 と 帰国
| 1883 明16 | 50歳 | 1883/2/14:動植物分布の境界線=ブラキストン線発表。 それを機に、同年8月、函館を去った。
帰国前に、既にお雇い外人任期満了でアメリカに帰ったエドウィンダン家に立ち寄る。 ここで、エドウィンダンの姉、アンヌ・マリーに一目ぼれ。 |
冒険 旅行 | 1884
明18 | 51歳 | 結婚の約束を取り付けた後、一人でもういちど冒険。オーストラリアとニュージーランド。 |
再婚 | 1885 明18 | 52歳 | アメリカ、ニューメキシコ州シマロンで結婚生活。 一男一女の父となる。 |
三度目の再来日 |
※ | 1885 以降 | ※ | 駐日アメリカ公使館勤務。 |
死亡 |
死亡
* | 1891 明24 | 58歳 | アメリカ、カリフォルニア州サンディエゴ旅行中、肺炎で倒れ死亡。 墓は妻の生地、オハイオ州コロンバス |
関連人物 |
豪商、 柳田藤吉 | 融資を受けたり、箱館戦争中、私財をブラキストン家に保護してもらったり、商売の援助を得たり。
新興産業、異人仲買人からスタート、各種交易で富を得る。 |
福士成豊 | 気象観測で有名人。明治を生きた。箱館では名高い船大工続豊治の倅。気象学をブラキストンに学ぶ。 |
中川喜兵衛 | 商人。天然水商売の先駆け。箱館の水を龍紋水とネーミングして販売。富を得る。 |
エド・ ウィンダン |
明治期のお雇い外人。アメリカ人。酪農を日本に齎し指導。 明治期、早速ブラキストンと友好。後年、日本に失望して去ったブラキストンは、彼の家に 立ち寄ったところ、彼の2番目の姉を気に入り、結婚(再婚。前述エミリーは立ち去った。 |
ジョン・ウィル船長 |
ジョン・ウィル回想記を残した。交友良好。ハーバル暗殺事件の日も、ブラキストン家で 被害者を含め三人で食事を楽しんでいた。ブラキストン家に誤って砲弾が飛び込んだ日も 同様にブラキストン家に居た仲。 |