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ブラキストンと箱館戦争,幕末_No.2

幕末,戊辰,箱館戦争,ブラキストン線で有名なブラキストンについて,箱館戦争の脇役者達<トーマス・ライト・ブランキストンの素顔,開拓使時代から晩年迄,青函連絡船の生みの親は、実はブラキストンだった!

 

箱館戦争とトーマス・ライト・ブラキストン

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No.1<No.2(現在の頁)
箱館戦争とトーマス・ライト・ブラキストン_No.2
箱館が函館に変わってゆく頃
二つの函館と、もう一度生まれ直した第二のブラキストン
箱館戦争脇役者達SERIES箱館戦争とトーマス・ライト・ブラキストン:No.1No.2(現在の頁)


朝から晩まで休む間もない。
北へ向かう人々を、次から次へと運んだ。

青函連絡船の生みの親は、
実は、ブラキストンだった!





世は開拓使時代へ。
しかし、ブラキストンにとっては、
受難の時代が転回されてゆく。

この直前から読む

榎本軍が降伏して、蝦夷は開拓使一色に染まる。
あっちこっちで、新政府の大嘘つき!とばかり一揆が勃発しているのだが、
ブラキストンにすれば、沈着冷静、いうなれば関係なかった。

朝から晩まで多忙なのだ。開拓使からの依頼事が多く、持ち船は北へ南へ休む間もない。
カンカイ号で移民を根室へ送る作業を受けた。箱館に残された新政府軍の軍機を、
東京へ送るべく漕ぎ出したところ、暴風で、アキンド号は沈没、失った。
他にもアスリ号などはあるが、実に不便になった。伴って収益も減る。

それになんといっても、一番迷惑だったのは、蝦夷地開拓は良いが、開拓使による
節操無い森林の切り崩しだった。あれほど鬱蒼とした原始の世界、蝦夷の原生林は無残。
製材業を営むブラキストンにとって、これはダメージ。箱館近郊では、もはや枯渇。
森林資源の豊かな場所へ拠点移動せぬことには、先が見えている。

再三、開拓使に願い出ては蹴られた。
資源豊かな石狩へ、本拠地を移動したい旨の嘆願書だった。


これでは、食えまい!さっそく行動に出た。

◆青函連絡船の生みの親は、実のところ、ブラキストンだった!!

明治6年

彼のアイディアは好調のスタートを切った。
それは、 需要が急遽高まった青森~函館間を定期運行しようというものだった。
・・・・・・(この頃から、箱館でなく、函館に変化してゆく)

たちまち彼の運営する「青函定期就航便」は大繁盛。彼が新たに買い付けた船は、
ミシン丸(マークゲー・ローダー号)といって、明治6年早速、数多くの人々を運んだ。

ところが、開拓使が横槍を入れてきた。開拓使名で別便、競合されたのだ。
翌年、明治7年、わずか8ヶ月で、この商売を廃業に追い込まれたのである。

今日なれば、これは一種の泥棒行為。訴えたり暴れたりの権利はありそうなものだ。
どうも、この開拓使の姿勢、いただけない。
されど、なんか裏がありそうなところ、それには、この段階でブラキストンは気付かなかった。


暗転の坂道、ブラキストンの運命


使用人縊死事件・・・明治6年2月発生(40歳の時)

ブラキストン家から、鉄砲と刀が盗まれた。
嫌疑者は使用人の「喜六」と「平四郎」である。気丈な男、ブラキストンは、
怖いもの無しだ。自ら、彼らを強烈に絞り上げた。

ところが、盗んだことは認めたが、黒幕を口割らない。(黒幕:頼まれた相手、引渡し先、目的)
猟用鞭で殴った。さらに縛って蔵に押し込んだのである。

ところが、翌朝、二人とも死んでいた!!

外人である彼は日本側から暴力を伴う糾問は一切受けはしない。
しかしながら、これは完全に殺人容疑である。事は膨れ上がった。
しかも、その使用人の一人は、16歳だったことから、いつになく、日本側の姿勢も強気だ。

結論は、鞭撻の罪で終わり、多額の過料支払いで決着したが、真相不明である。
幾つも説があり詳細は皆食い違う。参考までに、その一節で記載します。

一人は自殺と見なされた。縄を自分で解いて、首を括ったのだろうということで終わった。
しかし、もう一人(少年)が蔵の中で縊死したとなっては、いかに諸外国の抑圧に屈する
日本といえど、こればかりは終わらせるわけにいかない。
被害者が16歳前後の少年だったことから、相当揉めた。

街では、悪魔のような外人と噂された。
「暴行を加え、さぞ衰弱したであろう少年に水さえ与えず、手足を縛りつけたまま、蔵に放置。
それでは、誰だって死んでしまうにちがいない。あいつは、少年を死に追い込んだ邪悪な外人だ!」
・・・・人々は口々にそう囁きあった。

確かにその点、ブラキストンの落ち度は低くない。それに、少年の遺族から見れば、許し難い。
危険物を盗んで、今だその行き先が不明状態にある問題点は完全に吹っ飛んだ。

二人の死は、第三者による口封じかもしれない事件だった。


連続の試練、ブラキストンの苦悩


ドイツ代弁領事:ルードウィッヒ・ハーバル暗殺事件
・・・明治7年2月発生(ブラキストン41歳の時)



被害者のハーバルは当時、ブラキストン家に滞在していた。
当日もまさに、ブラキストン家で、仲良く、友人でもあるジョン・ウィル船長を含め、三人で
食事を楽しんだ後の事件だっただけに、ブラキストンは猛烈な衝撃だった。

突如、何者かに襲われ、即死である。

犯人は自主。秋田県士族「田崎秀親」。斬首で終了した。
あっという間に、この一件は終わった。

犯人は、「外人なら無差別天誅の発想の持ち主であり、狂人による単独私的行動で、
後ろ盾となる組織はない。」・・・とあっさり終わった。

その為、秋田藩は、飛び火を免れた。

本来のブラキストンならば、もう少し過激に抗議に出たはずである。
しかしながら、前年の事件がある。
この年、ブラキストンは、心の中に、完全に闇の部分が発生した。


横道に反れるが、この田崎秀親という人物、わざわざ、自分で自首した。
何か訴えたかったのだろう。日本の中で、誰かがきっと共感してくれるだろうと思ったのだろうか。
この時代、名誉の切腹を許されると勘違いしていた・・はありえないわけですが、
急旋回の時代の波、人のメカニズムが噛み合わずだった一件でもある。

しかし、彼にとって、斬首なれば楽なものを、現実はそうはいかなかった。
初めから明確に「犯人は己だ!」と言っているのに、糾問、拷問が待ち受けていた。
そろばんの上に正座、重石を幾つも載せられて「吐け!」とやられた。
こればかりは予想外だったにちがいない。

後ろ盾を吐かせるためのものだったようだ。
当初、自首した際の発言は「夢で、天から皇国のお告げを授かったから行った。死は覚悟だ。」
かなり格好良かったわけだが、彼なりのシナリオは、拷問が万事狂わせた。

その結果、明らかに後ろ盾がないのが解った。秋田県で皇学の生徒募集があった。入学する気
だった。ところが、この案が廃止。夢破れた彼は、日本が外国と和親を提携したからと思った。
そこで、誰でもいいから、外人を殺そうと思った。どうやら、本音のようだ。
(・・・秋田県士族「田崎秀親」について補足

この発言が、ブラキストンは、またしても迷惑につながった。関係ないどころか、
友人を殺された被害者だというのに、呼び出しを食らって、その日、どこで何をしてたか、
参考質問と称して、なんだかんだと聞き込み調査されたのである。

その理由はこれだ。余計なところに、自分の名が浮かび上がった。

拷問の苦しみのあまり、犯人がしゃべった。

「ハーバーだかっていうその外人に恨みがあったのでない。己は、その名さえ知らない。
外人なら誰でもよかった。決行しようと構えていたら、現れたのが異常にでかい男だった。
これでは、たまらんから、ひとまずやめた。

その後、外人にしては小柄な男が来たのでやった。」白状した内容は以上。

当時、でかい外人といえば、箱館に二人居た。

外人なら皆でかいと思うところ、この二名はやはり並じゃない。

2メートル以上の男といえば、このブラキストンと、もう一人、
アメリカ領事のE・E・ライス

友人の死、本来なら悲しみに沈むところ、てんやわんや。

気丈なブラキストンも、この年、41歳。ついに疲れてきた。


.


暗転しても再起を!ブラキストンの意地


明治8(1875)年8月(42歳の時)

前年の明治7年7月に発行したブラキストン貿易商社の株券。これが今頃槍玉にあがった。
再生を考えた暁の新規会社設立計画だったのだ。

青函連絡船のいわば、特許は開拓使に奪われる。生業、製材業の元、森林は新政府の
節操ない乱伐採で干からびた。明治6年から、何度も懲りずに石狩への移設を嘆願しても、
即ち、こうなると意図的に無視されている。

さればどうするか?考えた。それが、このブラキストン貿易商社だった。

しかし、この件が開拓使のクレームの的。ついに、8年、発行も禁止された。
会社設立されては困るが開拓使の本音。

外国がこの国を牛耳るのを防止しようとする必死の日本としての姿勢とは、
どうも微妙に異なる。やはり、ブラキストンはチクチク刺されて、
じわじわ、干されてきたのだった。

それでも数年の間は、煩い横槍を無視しつつ、彼のペースで粘った。
こんな時、彼は以外に強い。それは研究の世界に没頭できるからでもあった。
お雇い外人として現れたアメリカ人、エドウィンダンとは意気投合して
友情が育まれていった。切羽詰る時こそ、第二の余裕を発揮する男、それがブラキストンである。
たった一人で世界中の大渓谷を研究調査の旅で歩き回ったその経験が、
彼の尋常ならぬ強さを植えつけていたのである。



明治13(1880)年、47歳の時、ついに、製材業も廃業に追い込まれた。
石狩への移転、最期の嘆願が蹴られたのだった。

「ようするに、つまり、そういうことか。宜しい。」

・・・・ついに、開き直った。

不気味な程、暫し、ブラキストンは静かだった。
また、なんか企む気ではあるまいか?世間の下らぬ噂など、我関せず。

ひたすら研究に走った。この年齢でも、健脚の彼は、なんら困らないのだった。


1883年(明治16)年、2月14日のバレンタインデー、50歳の彼は、
動植物分布の境界線に係る調査記録を発表。
世界が彼に注目した。絶賛されて、後にブラキストン線と
ネーミングされたのである。


同年、8月には、あっさり函館から姿を消した。

30歳そこそこでやってきた男は、20年間も、この地、函館に居たのだ。
しかし、未練もへちまもない。穢れた不要な思い出は、名声で挽回した。
己の中から、不愉快な事象は全て、綺麗さっぱり洗い流した。


同年8月、「さらば!」たった一言。

・・・遥か海の向こうに姿を消した。



人生らしい人生・・・答えはYES!


誰もが、祖国イギリスに帰ったのだろうとばかり思っていた。
失意の男のルートとしては、それが自然ななりゆきだからだ。
ところが、やっぱり、この男は、まだまだ終わっていない。
こんだけ、散々な目にあっていても、関係ない。

大人しくイギリスに帰ることなく、アメリカへ渡った。
アメリカには、函館時代に親しくなったエドウィンダンが居る。
まずは彼の顔を見てから、研究の旅に出るつもりだったのである。

ところが、ここで思いがけない事件が起きた。運命の女神が悪戯を!!
彼は、いきなり、エドウィンダンの姉、アンヌ・マリーに一目ぼれ。

エドウィンダンにしてみても、こればかりは、
まさに「まさか!」の事態だったという。
しかし、この後、研究旅行に旅立つはずが、マリーがYESというまで、
粘り倒していつまでも彼の家に座り込んで立ち去ろうとしないのだ。

根負けしたのか、ついに、YES!!が返ってきた。
その途端、旅に飛び出した。

ブラキストンには苦い経験がある。
新婚旅行兼で己の冒険旅行を為したのは20年前。
それが直接の原因ではないが、結局、新婚早々、妻は逃げ去った。
二の轍は、まさか踏まない。
今度は、さっさと一人旅に出ると、予想外に早く帰ってきた。

オーストラリアとニュージーランドの旅から帰るなり、約束どおり結婚した。
この時、彼は52歳。イギリスへ連れ去ることなく、
妻の生まれたアメリカで暮らすことにした。
結婚生活は、ニューメキシコ州シマロンである。

それまでの経緯を知るエドウィンダンはやはり心配だった。
しかし、ブラキストンは完全に変化していた。
ひとえに年齢のせいとはいえない。


仕事上、第三回目の日本駐在も受けたり、或るいは比較的短期の
研究旅行に出かける習性はあいかわらず。
しかし、昔と異なり、他を放置してまで没頭しなかった。

誰よりも、何よりも、最愛の妻、マリーを愛した。

52歳でやっと本当の結婚ができたブラキストンには、
天が二人の子を授けた。父として、夫として・・・
その暮らし方を最も重視して生きた。

一般常識で考えれば当たり前のことだが、
彼にしてみれば、これは画期的なこと。


戦い続けた男は、やっと本当の幸せに、気がついた。
実に平凡で、どこにでもあるような単なる幸せが、
最も尊い幸せだったということを、初めて知った。




遅すぎた幸せ時代、誰よりも愛した人


研究熱は冷めたわけじゃない。されど家族が一番。
その彼が、再び旅行に出かけると妻に語った。といっても、彼のスケールからすると小さい。
またしても得体の知れない遠い異郷に行くのとは違った。

彼が彼である以上、当然危険はついてまわる。
過酷な旅に違いはないが、行き先は国内、アメリカなのだ。

妻は笑顔で見送った。
「行ってらっしゃいませ!」

なんと、それが最期となった。

カリフォルニア州サンディエゴ旅行中、
ブラキストンは、突如、肺炎で倒れ死亡した。
墓は妻の生地、オハイオ州コロンバスに建てられた。


本当の結婚に巡りあえたのが52歳。
初めて、本当に深く人を愛して、
愛は慈しむ為にある・・・それが、やっと解った。
子も授かり、ニ児の父となった。

それから、僅か6年、突如、天へ飛び去った。

妻マリーは、一生涯、誰よりも優しく、誰よりも家族思いだった夫の姿、それしか知らない。


箱館戦争とトーマス・ライト・ブラキストンの素顔・・・完




★左の本:大人が読んで、最期に突然泣ける本。むしろ、大人じゃなきゃ解らない
重みもあるかも。100万回生きたねこ、100万回、泣いて下さい!
幕末_WITH_LOVE玄関:中には小難しいタイプもありますが、歴史に興味がない、
箱館戦争なんて知らない人でもさらっと読み流せる心系もあります。
幕末の人は皆、随分純粋です。
ブラキストン年表
箱館戦争の観点からブラキストンおまとめ年表作ってみました。


トーマス・ライト・ブラキストン(=トーマス・W・ブラキストン)
名前日本では、ブラキストンともいわれる。
生死
概略
1832年12月27日 - 1891(明治24年)年10月15日、享年58歳
生地:イギリス、ハンプシャー_リミントン、貴族の家に生まれる。
死亡地:アメリカ、カリフォルニア州サンディエゴ研究旅行中、肺炎に倒れ死亡。
人物元軍人・貿易商・探検家・博物学者。士官学校卒業後、軍人。クリミア戦争にも参戦。
軍人生活終了後、従来の彼らしき生き方として、探検、研究。動植物知識の他、測量、気象学知識有。
バランス感覚がよく生業としてのビジネスには精力的。その傍らで研究をする人生。
1861年、第一回目箱館来日。1863年再来日:1863年~1883年迄箱函館居住。計20年。
動植物の分布境界線として「ブラキストン線」を提唱。その為日本での認識は学者としての印象が強い。
軍人生活後中心に見た彼の行動
軍人時代

1863年


30歳
◇近衛砲兵将校:クリミア戦争参戦。この時、弟のローレンスの戦死。
◇1857(24歳)パリさー探検隊の一員となる。カナダ、アメリカ等で、地時期観測。
◇大尉時代:広東守備
_この時、軍務の傍ら、揚子江探検。揚子江上流に住む苗(びょう)族の研究を発表。
1861/7~9月位(28歳)第一回目箱館単期滞在
(この時期にも駒ケ岳に上るなどして動植物研究
会社員
時代
◇西太平洋商会に入社
1863年30歳◇エミリーと、第一回目の結婚
脱サラ&
冒険&
箱館へ
30歳
◇新婚旅行=シベリア横断。
◇1863年6月末、箱館へ再来日。そのまま住み着く。
◇友人と箱館にブラキストン・マル商会を設立。貿易、製材所経営。研究も継続。
箱館戦争
時代
1868

1869
35歳

36歳
◇1868/10、榎本軍来蝦夷
◇この時期、自国イギリスの司令に忠実な彼は、新政府側の応援。
武器、石炭、食料など注文に応じる。
明治3年

5年
1870

1872
37歳

39歳
あいかわらず基本の商売、交易と製材業
◇移民の移送:彼の船、カンカイ号で移民を根室へ。(アキンド号は沈没)他にアスリ号
も彼の持ち船。
◇開拓使と契約をもった柳田藤吉の援助も含め、暫し開拓使にも貢献している時代。
箱館から函館に変った頃、暗転の坂道、ブラキストンの運命
明治6年

13年
1873

1880
40歳

47歳
雲行きが転じた開拓使
◇開拓使が軌道にのると、なぜか、ブラキストンへの扱いが徐々に雲行き悪化していった。
三菱などの大型船が航行。おかげで、ブラキストンは生業が苦しい。
青函連絡船の生みの親は、実のところ、ブラキストンだった!!
元祖青函連絡船スタート(明治6【1873】~7【1874】):40~41歳
青森~函館(この頃から、箱館でなく、函館に変化してゆく)
ミシン丸(マークゲー・ローダー号)による定期運行。好調。

開拓使が横槍。開拓使名で別便、競合。わずか8ヶ月で、この商売を廃業。
使用人縊死事件・・・明治6(1873)年2月発生(40歳の時)
ブラキストン家から、大量の鉄砲と刀が盗まれた。嫌疑者は使用人の「喜六」と「平四郎」
盗んだことは認めたが、黒幕を口割らない。(黒幕:頼まれた相手、引渡し先、目的)
猟用鞭で殴った。さらに縛って蔵に押し込んだ。翌朝、二人とも死んでいた。殺人嫌疑。結論は、
鞭撻の罪で終わり、多額の過料支払いで決着したが、真相不明。幾つも説があり詳細は皆食い違う。
一人は自殺と見なされた。縄を自分で解いて、首を括ったのだろうで決着。しかし、もう一人(少年)は
蔵の中で縊死。当時の日本は強気で外人を訴えることなどできない時代だが、被害者が16歳前後の少年
だったことから、相当揉めた。暴行を加え、衰弱の後放置により少年を死に追い込んだ悪魔のような外人と
噂された。第三者による口封じかもしれない事件だった。
ドイツ代弁領事:ルードウィッヒ・ハーバル暗殺事件・・・明治7(1874)年2月発生(41歳の時)
犯人は自主。秋田県士族「田崎秀親」。斬首で終了。
外人無差別天誅。狂人の独断犯行として事終了。秋田藩に飛び火は防がれた。
原因は、秋田県で皇学の生徒募集があった。入学する気だった。しかしこの案が廃止。夢破れた彼は、
日本が外国と和親を提携したからと思った。
◆実は、この日、犯人が真っ先に目撃したのは、ブラキストンだった。しかし、ブラキストンは2メートル
以上の超大柄男。手に負えないと見送り、小柄のハーバルが通りかかったところチャンスと思い、行動に
出たことは糾問されて、本人がしゃべった。この頃、ハーバルはブラキストン家に滞在していた矢先の
事件だった。
・・・明治8(1875)年8月(42歳の時)
明治7年7月に発行したブラキストン貿易商社の株券。再生を考えた暁の新規会社設立計画だった。
この件が開拓使のクレームの的。ついに、8年、発行も禁止された。会社設立されては困るが
開拓使の本音。
低迷の製材業・・・明治13(1880)年、ついに、製材業も廃業・・(47歳の時)
明治維新のせいで、蝦夷の自然は、節操なく破壊されていった。それまで生息していた
動物もこの時期にどんどん滅びた。木材資源も同様、函館近郊では枯渇。

ブラキストンは明治6年頃から再三石狩への移転を計画、開拓使に願うが何度も拒否される。
今だ林資源の豊かな石狩への移業を考えたのだが、明治13(1880)年、ついに、製材業も廃業する。
函館に絶望、失意の中、研究発表
発表

帰国
1883
明16
50歳1883/2/14:動植物分布の境界線=ブラキストン線発表。
それを機に、同年8月、函館を去った。
帰国前に、既にお雇い外人任期満了でアメリカに帰ったエドウィンダン家に立ち寄る。
ここで、エドウィンダンの姉、アンヌ・マリーに一目ぼれ。
冒険
旅行
1884
明18
51歳結婚の約束を取り付けた後、一人でもういちど冒険。オーストラリアとニュージーランド。
再婚1885
明18
52歳アメリカ、ニューメキシコ州シマロンで結婚生活。
一男一女の父となる。
三度目の再来日
1885
以降
駐日アメリカ公使館勤務。
死亡
死亡
*
1891
明24
58歳アメリカ、カリフォルニア州サンディエゴ旅行中、肺炎で倒れ死亡。
墓は妻の生地、オハイオ州コロンバス
関連人物
豪商、
柳田藤吉
融資を受けたり、箱館戦争中、私財をブラキストン家に保護してもらったり、商売の援助を得たり。
新興産業、異人仲買人からスタート、各種交易で富を得る。
福士成豊気象観測で有名人。明治を生きた。箱館では名高い船大工続豊治の倅。気象学をブラキストンに学ぶ。
中川喜兵衛商人。天然水商売の先駆け。箱館の水を龍紋水とネーミングして販売。富を得る。
エド・
ウィンダン
明治期のお雇い外人。アメリカ人。酪農を日本に齎し指導。
明治期、早速ブラキストンと友好。後年、日本に失望して去ったブラキストンは、彼の家に
立ち寄ったところ、彼の2番目の姉を気に入り、結婚(再婚。前述エミリーは立ち去った。
ジョン・ウィル船長 ジョン・ウィル回想記を残した。交友良好。ハーバル暗殺事件の日も、ブラキストン家で
被害者を含め三人で食事を楽しんでいた。ブラキストン家に誤って砲弾が飛び込んだ日も
同様にブラキストン家に居た仲。


トーマス・ライト・ブラキストンの素顔:No.1No.2(現在の頁)
BACK:No.1_ブラキストンの発言「今は食事の最中!」
秋田県士族「田崎秀親_補足
関連:日本人特有の思想「介錯の依頼」

上記:本文内▼関連
田崎秀親 :明治7年2月発生:ドイツ代弁領事:ルードウィッヒ・ハーバル暗殺事件犯人。

補填が追いつかなかった明治のシステムと、人のメカニズムを痛感してしまう一件。


この田崎秀親という人物、わざわざ、自分で自首した。
当初、自首した際の発言は「夢で、天から皇国のお告げを授かったから行った。死は覚悟だ。」
と、かなり格好良かった。以上だけ読むと、やはり異常か?とあっさり思い込んでしまいそうなところ
だが、・・・やや悩む点がある。

この一件、犯人は、「狂人的攘夷主義者による単独私的行動で、後ろ盾となる組織はない。」
故に斬首。たちまちスピード解決された。ところが、この行動は何を意味するか。

わざわざ、自分で自首したところをみると、多分武士らしい最期を所望していたのではなかろうか。
行動パターンが、どうも単なる攘夷主義者というより、江戸時代に実際あった何らかの事件を
頭の中で自己流に代入して行ったように見えてならない。

江戸時代、いつも主張には、殺傷がつきもの。団体か否か。稚拙か、或る程度の主軸があるか
否かの違いだけ。桜田門外の変も、志士達は、大老を血祭りにあげて訴え、己は刑死覚悟。
外国人の暗殺については、闇討ちして逃げ切ろうとするパターンが数としては多いが、白昼に
刑死覚悟で、討って出た者も居る。

ある意味で、彼は、急旋回の時代の波に取り残されたタイプともいえるが、
しかしながら、この時期、世は非常なアンバランスで、新と旧がごちゃ混ぜに雑居状態だった。
この後、下級武士による士族反乱が順次発生する。
有名なものだけでも、明治7年2/16_佐賀の乱。皮肉なことに、初代司法卿の江藤新平が、同7年4/13
処刑死。他に、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱 と続く。(明治初期混乱司法と事件の様子

なんといっても、法の要、司法卿の江藤新平、ご本人の処刑の際、諸外国の目がある中、
曝し首といったとんでもない野蛮を決行されてしまった。法を整備した彼自身が死んでしまうの
だから、誰も「待った!」を入れる間がなくなった。一応明治2年に、曝し首と、引き回し、鋸引きの刑
は廃止されたことになっているが、現にこのとおり、ぐちゃぐちゃ新旧混在。
時代遅れは、田崎一人ではない。

むしろ、苦々しいことに、江戸時代のほうが、この時期に比べると、システム的に整備整頓されて
マシだったと言える点も多々ある。皮肉ながら、田崎秀親の処刑も、まさにそれだ。
その点で言うなれば、彼は不幸にして被害者ともいえる。

江戸時代の処刑は、専門家が行う。世襲で由緒正しい幕臣専門家、山田家もあれば、末端の他専門係も
きちんと整備されていた。鋸引きの刑見張り監督やら、磔刑の槍施工等は別。異種ながら、やはり専門家。
罪人の遺体を取り扱うにも、彼らの領域であり、特定の掟に基づいて行う為、やはり専門家に他ならない。

戊辰終焉の各戦犯処理には、主に恭順藩の指南役が選ばれて、指定されてしまった。
されど、彼らは藩の使命故、情に流されることなく淡々と任務追行。見事な太刀さばきで斬首した。
近藤勇の刑を担当した人物、岡田藩:剣術指南役:横倉喜惣次は、同時に相楽総三の処刑人でもある。
腕はまさに達人。両者共無念の死ながら、太刀さばきに関していうなれば不幸中の幸いといえる。

対して田崎の時、もう明治も7年だというのに、そのあたりは逆走現象。ましてや、蝦夷の孤島。
経験豊かな専門家が揃っていない。(少々、BADな描写恐縮ながら
田崎の処刑の段階で対処した者は、恐らく刀使いが相当拙い。人選に余裕がなかったのだろう。
拙いというより、刀の素人丸解り状態。これは辛い。断ち切れなくて、何回も繰り返しバサバサと。
しまいに髪を掴んで、鋸引き状態になった意が記載された資料を見てしまった。
被害者が外人である為、日本の対処如何でこの先影響が多大。スピード解決の訳はそれだ。
外人さんが立会う世紀の場面のことだった。

罪は罪。しかも殺人。非常にいけない。しかしながら、こればかりは、気の毒だ。
たとえ、時代錯誤といわれようと、ある意味で恐らく武士の子らしい最期を所望していたであろう人物、
田崎秀親の終焉は、志の為なれば、一身に罪を背負い、一刀のもとに斬首を・・・の覚悟だったはずが、
よりにもよって、こんなことになってしまった。

田崎自身はかなり剣の腕がたつ。被害者のハーバルの遺体がそれを物語る。(残酷だから略)
腕のたつ者にとっては、上記処刑施工人のようなド素人に遭遇する事は、犯行決断の段階では一切
想像つかないはずだ。一刀のもとに武士の子らしくどころか、とんでもないことになってしまった。

この一件さらに背景を読む:表示先頁の上側の一連も彼のメカニズムに影響。
明治の偉人達の多く、この直前にあった慶応,元治,文久,万延,安政・・、領事館を
襲撃したりして、暗殺という結論だけ取って言うなれば、似たような事をやっています。

文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材については頁下表示


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